เข้าสู่ระบบ胸の奥が、ひどく静かに鳴っていた。 セラフィナの指先が、ローブの内ポケットから小さなケースを取り出す。 黒いベルベット。 見覚えのある形だった。 息が浅くなる。 怜司にもらった、イミテーションのピアス。 宝石としては本物ではない。 でも私にとっては、本物以上だった。 片方だけ残ったまま、ずっと手放せなかった時間。 セラフィナに偽物だと言われた日から、その痛みだけが小さな棘みたいに残っていた。 そのセラフィナが、何もためらわず、私の前でケースを開いた。 中で、小さな光が揺れる。 本物だ。 あのピアスの光とも違う。 もっと冷たくて、もっと静かで、でも目を逸らせない光だった。 クレールが小さく息を呑む。 佐伯も、何も言わない。 怜司だけが、少し離れた場所で黙ってこちらを見ている。 「……どうして」 やっと出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。 セラフィナはケースの中を見たまま、淡々と答える。 「決まってるでしょう。あなたに渡すためよ」 「……私に」 「ええ」 そこで初めて、セラフィナが私をまっすぐ見た。 冷たい。 でも、見下してはいない。 同じ舞台をくぐり抜けた人間を見る目だ。 「偽物に、こんなものは渡さないわ」 その一言で、視界の奥が熱くなる。 黒崎に押しつけられた名前。 セラフィナに刺された傷。 自分で自分に貼りつけていた烙印。 その全部が、一瞬だけ音を立ててひっくり返る。 偽物じゃない。 はっきりとそう言われたわけじゃない。 でも、もう十分だった。 私はケースの中の光から目を離せない。 セラフィナが、ふいに低く言う。 「これは、母が初めて《アウローラ》を纏った夜につけていた石よ」 胸が、強く鳴った。 セレナ・ヴァルデ。 《アウローラ》を伝説にした女。 「恋人からの贈り物だとか、そういう甘い話じゃないわ」 セラフィナの声は、少しだけ冷える。 「あれは女神への捧げものだった。セレナ・ヴァルデを、ただの女優ではなく、神話にするための石」 黒いベルベットの上で、光が静かに揺れる。 「その夜から、母は伝説になった」 重い。 綺麗だからじゃない。 高価だからでもない。 ひとりの女を、世界が勝
拍手が、しばらくやまなかった。 最後のルックが戻り、音が落ちてもなお、会場の熱だけが残っている。客席から押し寄せる拍手は、賞賛というより、まだ冷めない欲と恍惚が手のひらからこぼれる音に近かった。 勝った。 まだ誰も口にしていないのに、空気の方が先にそう言っていた。 その瞬間、まっ先に怜司の顔が浮かんだ。 見ていたなら、分かったはずだ。 私が渡さなかった熱が、どんな形で会場を奪ったか。 褒めてほしいわけじゃない。 ただ、その目で欲しがってほしかった。 社長としてではなく、男として。 そう思った瞬間、膝が少し笑いそうになった。終わるまで立っていた緊張が、今さら遅れて身体へ戻ってくる。 スタッフの足音は慌ただしい。でも、その慌ただしさの奥に、隠しきれない高揚が混ざっていた。 「白川さん」 クレールが駆け寄ってくる。 頬が赤い。 いつもよりずっと興奮した顔で、タブレットを押しつけるように差し出した。 「もう出てる」 画面には速報記事が並んでいた。 写真つきの短評。 海外メディアの即時レビュー。 投資系の速報欄。 どれも、さっきまで私たちがいた舞台のことを、もう値段と物語に変え始めている。 指先が少しだけ冷たくなる。 「見て」 クレールが半分笑いながら、最初の記事を開く。 大きな見出し。 『ルクソリア、神話を再起動』 その下に続く本文を、私は黙って追った。 白川澪の狂気を神話として成立させられる器は、いまなおルクソリアしかない。 そして、その狂気を恐れず市場価値へ変えられるメゾンもまた、ルクソリアだけだった。 今夜証明されたのは新しい才能だけではない。 ルクソリアが依然として「神話を売れる家」だという事実である。 喉の奥が、熱くなる。 記事に書かれたのは私の名前なのに、そこにあるのは私だけじゃない。 ルクソリア。 怜司。 アウローラ。 全部まとめて、今夜の価値になっている。 「来たわね」 佐伯が後ろから言った。 いつもと変わらない低い声なのに、今日はその奥にわずかな熱がある。 「ええ」 クレールがタブレットを握ったまま、少し早口になる。 「投資筋も反応してる。ルクソリアの神話価値が戻ったって」 「短期なら、十分す
音が切り替わった。 それだけで、会場の空気が変わる。前半の余韻に浸りかけていた客席が、もう一度息を止めるのが分かった。《La Distance de l’Amour(愛の距離)》で引き寄せた視線が、まだほどけきっていない。 だからこそ、次に落ちるものは強い。 私はセラフィナの前に立つ。ローブはもう開いている。その下にある《L’amour et la jalousie(愛と嫉妬)》は、さっきまでの前半とはまるで違う顔をしていた。 同じ物語の続き。でも、戻れない。 愛したまま待っていた女が、そこで終われずに奪い返しにいく服。 セラフィナが私を見る。何も言わない。でも、その目だけで十分だった。 行くわよ。 そう言っている。 私は背中のラインへ最後に指を入れた。ずれはない。甘さももうない。残っているのは、欲しがったまま手放さない意志だけだ。 佐伯が少し離れた場所から低く言う。 「ここで優しくしたら終わりよ」 「しません」 即答だった。クレールが息を呑む気配がする。でも、もう誰も止めない。ここまで来たら、綺麗にまとめる方が敗北だ。 セラフィナがゆっくり顎を上げた。母の残像をなぞるための角度じゃない。それを踏み越えるための顔だ。その瞬間、ぞくりとした。 この女もまた、本気で全部を奪いにいっている。ルミナス・ガラ。母の神話。自分の名前。私とは違うものを欲しがっているのに、向いている方向だけは同じだった。だからこそ、ここまで来られた。 スタッフが合図を出す。 出番だ。 私は一歩下がる。 セラフィナが、暗い舞台袖から光の方へ踏み出した。 最初の一歩で、空気が裂けた。さっきの前半みたいな、静かな吸引じゃない。もっと直接的で、もっと危ない。 会場の視線を、奪う。 そうとしか言いようのない歩き方だった。 細いランウェイの中央へ、セラフィナの身体がまっすぐ進んでいく。《L’amour et la jalousie(愛と嫉妬)》は、その歩みに合わせて揺れるというより、噛みつくみたいに空気を切っていた。 腰の線。脇の落ち方。胸元に残したぎりぎりの余白。 すべてが「見て」とは言わない。見ないでいられるなら見ないでみろ、と挑発している。 客席のどこかで、はっきり息を呑む音がした。続いて、押し殺したざ
音が落ちた。 会場の照明がゆっくり沈み、細く長いランウェイだけが白く浮かび上がる。 私は舞台袖の闇に立ったまま、呼吸を整えた。 いよいよだ。 最初に現れるのは、《La Distance de l’Amour(愛の距離)》。 愛だけでは終わらない物語の、その表側。 セラフィナが位置につく。 私は袖口の落ち方を、最後に指先で確かめた。 布は静かだ。 でも、見た目よりずっと張りつめている。 「白川さん」 佐伯の低い声に、私は振り向いた。 「最初の三歩で決まるわ」 「はい」 「愛は、見せびらかすものじゃない。見ている方に、勝手に欲しがらせるの」 胸の奥が、すっと冷えた。 そうだ。 このショーは説明じゃない。 欲しがらせる場だ。 私は乾いた唇を、舌先でゆっくり濡らした。 佐伯が一瞬だけ目を見開く。 それから、呆れたように小さく笑った。 私は、奪う。 見られるのを待つんじゃない。 欲しがらせて、奪いにいく。 音が、さらに一段落ちる。 開幕。 セラフィナが歩き出した。 最初の一歩で、空気が変わる。 客席のざわめきが止む。 音楽も照明もまだ派手じゃない。 なのに、視線だけが一斉にひとつの身体へ吸い寄せられていく。 《La Distance de l’Amour(愛の距離)》は、舞台の上で静かに光を拾っていた。 大げさに揺れない。 媚びるみたいに広がらない。 でも、歩くたびに裾の浅い波が遅れてついてくる。 その遅れそのものが、未練みたいに美しい。 三歩。 四歩。 愛している。 でも届かない。 抱きしめたい。 でも触れられない。 その距離そのものが、ドレスの線になって立ち上がる。 ターン。 照明が裾の端を掠めた。 その瞬間、白い光が布の内側へ入り、影が身体の線に深く落ちる。 触れていない。 誰の腕も、そこにはない。 なのに、その一瞬だけ、ドレスは誰かの胸に強く抱き込まれているように見えた。 逃げようとする身体を、もう一度引き寄せるように。 離れかけた熱を、無理やり重ねるように。 白い布が、清らかな顔をしたまま、ひどくいやらしく光った。 客席の空気が、そこで変わった。 服を見てい
ショー会場の関係者入口へ着くと、空気が一気に変わった。 古い石造りの劇場を、一夜だけモードの聖堂みたいに仕立てた会場だった。 高い天井も、磨かれた黒い床も、いまはルクソリアの神話を受け止めるためだけに息を潜めている。 客席にいるのは、ただ拍手を送る人たちじゃない。 批評家、バイヤー、顧客、投資筋。 この一夜で、ルクソリアの値段まで見定める人間たちだ。 スタッフの足音。 搬入の声。 照明チェック。 メイクの匂い。 布の擦れる音。 全部が、ひとつの巨大な呼吸みたいに脈打っている。 その入口の脇に、ひとりだけ動かない男がいた。 細い銀縁眼鏡。痩せた頬。笑っているようで、まるで笑っていない目。 「白川澪」 呼び止められた瞬間、クレールのメッセージを思い出した。 ジャン=ポール・ルメール。 意地が悪く、偏屈で、誰かの美談をそのまま記事にすることを嫌う記者。 それでも本物だと思ったものだけは、どんな利害の中にあっても拾い上げる人だと聞いたことがある。 「ルクソリアの救世主として来たのか。それとも、アーク・ブレイズを裏切った女として来たのか」 ずいぶん失礼な聞き方だった。 でも、その視線は私の顔より先に、服を見ていた。 「どちらでもありません」 「では、誰の名前の下に立つ」 一瞬だけ、喉が詰まる。 ルメールはその沈黙を見逃さなかった。 「まだ持っていないのか。自分の名前を」 胸の奥が、鋭く痛んだ。 でも、足は引かなかった。 「ショーで魅せます」 私がそう言うと、ルメールの目が初めてわずかに細くなった。 「なら、見せてもらおう」 私はバックステージへ足を踏み入れた。 佐伯がすぐこちらに気づく。 「来たわね」 「はい」 その顔を見ただけで、もう余計な言葉はいらないと分かった。 クレールが資料を抱えたまま駆け寄ってくる。 「前半の流れ、少しだけ順を詰めた。あとで確認して」 「分かりました」 「それと」 一瞬だけ声を潜める。 「綾乃さん、さっき来た」 胸の奥が、ひやりとした。 「何て」 「数字は跳ねるって」 クレールは苦い顔で笑う。 「その代わり、今日で終わらせないなら次の話が要る、って」 やっぱりだ。 ショーはゴールじゃ
ショー当日の朝は、信じられないくらい静かに始まった。 昨日ほとんど眠れなかったはずなのに、目が覚めた瞬間から頭だけは異様に澄んでいる。 怜生は、もうすっかり元気だった。 少し前に熱を出したことが嘘みたいに、朝からベッドの上で膝立ちになって、私の支度を眺めている。 椅子の背には、二着の服を掛けていた。 一着は、黒のジャケット。形も色も控えめで、会場の空気に馴染む。誰の邪魔にもならず、誰の視線も奪わない服。 もう一着は、昨夜最後まで迷って、結局しまいかけた服だった。 少し強すぎる。 今の私が着たら、気持ちまで見透かされそうな気がする。 「怜生」 「ん?」 「どっちがいいと思う?」 怜生は二着をじっと見た。 眠たげだった目が、少しだけ真剣になる。 それから、迷いもなく片方を指さした。 「ままは、こっち」 強すぎる服。 胸の奥を、不意に押された気がした。 「……こっち?」 「うん」 「どうして?」 怜生は首をかしげて、それからもう一度言った。 「こっちが、まま」 その言い方が、ひどく怜司に似ていた。 似合うかどうかじゃない。 きれいかどうかでもない。 その服を着た私が、私としてそこに立っているか。 この子は、そこだけを見ている。 私は小さく息を吐いて、黒のジャケットから手を離した。 無難な方を選べば、波風は立たない。 でも今日は、波風を避けるための日じゃない。 私は怜生が選んだ服を手に取った。 「じゃあ、こっちにする」 怜生は満足したように頷いた。 「まま、いる」 たったそれだけの言葉で、胸の奥に残っていた迷いが消えた。 シッターに預ける支度をしながらも、昨日の夜の熱がまだ身体の芯に残っている。 澪。 名前を呼ばれたときの痛みみたいな熱。 抱かれかけて、それでも止めた瞬間の震え。 抱かれたままじゃ、奪ったことにならない。 その言葉だけが、今も静かな火になって胸の奥に残っていた。 今日は証明する日だ。 恋じゃない形で。 舞台の上で。 支度を終えて玄関を出る直前、スマートフォンが震えた。 一ノ瀬さん。 名前を見た瞬間、胸の奥が少しだけ固くなる。 「……はい」 『朝から悪い』 電話の向こうの声は、いつも







